人気ブログランキング | 話題のタグを見る

国技の価値

 先日、相撲を見に家族そろって国技館へと行った。思えば両国という土地、相撲以外で足を運んだ記憶が無い。考えてみたら決して交通の便がとても良いという場所でもない。調べてみると、両国という名前自体辺鄙な場所が故つけられたもののようだ。武蔵の国と上総の国の、両国にまたがる土地、ということで。そう考えるとなかなか強烈な名前だ。「田舎」とか名づけられるのに近い。現在非常に荒れているウクライナも元々「辺境」とかそういう意味なんだっけな。

 かつては両国も東両国と西両国に分かれていたようである。これまた面倒なことに呼び名も時代によって変遷していく。かつては西両国の方が重んじられていたらしく、明治頃までは西側が両国と呼ばれていて東側は向両国とか東両国と呼ばれていた。国技館の建設や両国駅の位置により立場は逆転、東側が両国になり、西側は東日本橋となる。東日本橋ってことは馬喰町あたりか。なかなか広い地域だったのだなあ、と思う。

 おそらくそれなりに遠くにあるからなのだろう、国技館周辺は独特の「観光気分」なるものに満ちている。国技館が東京ドームの場所にあったり、相撲が日本武道館で行われたりしていたらこうはいかない。やはり総武線の各駅しか止まらない両国駅にあるからこそ意味がある。江戸時代からすれば辺境の地であった山の手、さらには山の手の西側が栄えている現在からすれば、両国に行くだけでもちょっくら足を伸ばす感覚を得る。東京駅からも一本で行けるわけでもないし。

 ちょっと時間をかけて到着したら、これまた普段目にしない(鼻にしない?)鬢付け油の香りを携えた力士がフラフラしている。国技館の中では力士同士が取組をしている。まわりでは色々と食べ物や飲み物、相撲にまつわるグッズを売っている(ちょっと高い値段で。これもまた観光地らしい)。ふと他に目をやれば、賜杯をはじめ歴史を感じさせるものも多く、まるで博物館のようだ。相撲が他のスポーツと違うのは伝統めいたところなのかもしれない。まるで歌舞伎や能など、もしくは家流みたいなもので、部屋の伝統だ。「琴」、「栃」、「北」、「富士」などの文字が使われている四股名を見ただけで、部屋や親方がわかる。ちょっと通ぶって「九重部屋の連中は親方と一緒で小柄な力士ばかりだな」なんてことが言えたりする。

 さて、こんな風に伝統が重んじられる相撲であるが、日本人力士のふがいなさが語られ始めてからもう何年も経っている。貴乃花が2003年に引退してから日本人横綱は土俵入りしておらず、最後の日本人力士優勝は2006年の栃東。活躍するのはモンゴル勢ばかり。去年、今年と稀勢の里や遠藤が少し期待されたが、また新たにモンゴルのスター候補みたいなやつがやってきた。アジアやハワイのみならず、ヨーロッパ、アフリカの力士までいる。これを嘆く人々もいるし、興味をなくす人々もいるなんて話も聞く。嘆いたり興味をなくすのは感情なのでどうしようもないが、ただいつもこの手の意見を聞くと私は思う。サッカーやラグビーが世界に広がって「イギリスが強くないなら興味ない」なんていうイギリス人はどれくらいいたのか。今やサッカー王国といわれるのはブラジルだし、ラグビー強い国と言われて思いつくのもニュージーランドであったりする。でもイギリス人が今でもフットボール好きなのは変わらない。

 親方連中は弟子が多ければ多いほど協会から援助金をもらえる。よって弟子に辞められると困るから厳しくはしない。弟子達は弟子達でギャンブルで遊び呆けて、やがて仕事になれたら星勘定と番付の維持を気にするばかり。ついこの間まで八百長をしていたのがばれたのが数年前。それで「なぜ日本人横綱が?」と言っても仕方ない。言葉も不自由で金銭も大事にする外国人力士にはギャンブルも八百長もできないだろう。ついこの間まで腐りきっていたのだから、当然の事態であると言える。何も恥じることなく強いモンゴル勢に挑めばいい。

 そうそう、貴乃花が優勝決定戦で若乃花に負けたのだって色々なしがらみを感じる。若乃花を嫌っていない人間はみんなが若乃花の勝利を願っていた。二子山親方も二人の横綱を持てるチャンスだった。貴乃花は負けてもさして失うものはない。そうなると貴乃花も色々と迷いが生じる。ある意味、社会と関係性が若乃花を勝たせたといえる。
とまあ、こんなことを含めてやはり相撲は日本的な競技だなあと思う。そもそも「日本人が負けて情けない」という意識自体が日本的だ。日本という国が続く限り、1、5、9月の中頃、国技館に、両国に人は集まり続けるんだろう。そしてみんな興奮したり、ちょっと高い食事をしてみたり、力士の入場を見て「やっぱり大きいなあ」などと感心したりする。そうやって東京は年月を刻んできている。いつか相撲抜きで訪れて隅田川周辺を歩いてみたいものだ。

最後に白鵬の運動神経。こんな能力高い奴が懸命に稽古したら、そりゃなかなか勝てんわ。
http://www.youtube.com/watch?v=C0nd5KZRyAw

# by yokohama0616 | 2014-09-29 21:40 | 時事

人間の問題とは言葉の問題であり、言葉の問題とはすなわち文学の問題なのである By ミラン・クンデラ

 先日、ある科学者が自ら命を絶った。その科学者とは今年の1月にはある発見をしたチームの重要な一員ということで有名になり、3,4月頃にはその発見が疑われ、彼自身も色々と悪い噂を書かれるようになった。たかだが約半月の間に彼の人生は大きく揺れ動き、結果的に彼はそのような動きの中で生を終えてしまった。

 彼が亡くなってからはメディアは「優秀な学者を失った」などと述べている。ついこの間までは小娘にうつつを抜かしているヒヒ親父のように扱っていたのに。さらには「なぜ今、死を選ぶのか」とか「謎の死」「不可解な自殺」などという手垢にまみれたフレーズを並べる。何も真摯さが伝わらない。マスメディアの人間ってどうしてこうもエクリチュールがないのだろう。世の中言葉だけが全てであるとは思わないが、彼らの仕事は言葉そのものだろう。彼らがもう少しでも言葉に対する美学を持ったら、マスメディアの存在意義も大きく変わるものだと、割と本気で思うのだが。世の中もありきたりであり、メディアもありきたりの言葉を並べる、その構造自体を見直してほしい。

 そもそも不可解でない自殺など存在しないのだが、おそらくメディア以外のたいていの人達はどんなものが科学者を追い込んだのか充分に理解している。そしてメディアはただ気付かないふりをして、「周りの人は気付かなかったのか」とか「職務がきつかったのでは」などと述べている。自分達は気付くべきではなかったのか、と自らに問いを向けるメディアは存在しない。

 1月の「世紀の大発見」と大騒ぎしている中、「あのオヤジ、実はあの娘にうつつ抜かしているらしいぜ」というような記事は存在したのだろうか。いるかもしれない。したとすれば、大衆紙かスポーツ紙くらいか。しかしそんな低俗な記事と言えど、弱い立場にたってからボコボコと叩くような名前の知れた週刊誌やワイドショーなどよりは上品なのかもしれない。では2,3月以降、弱い立場になっている際「いや、彼は世界的な学者であり優秀な人間だ。もうちょっと答えを待ってみようじゃないか」というようなことを述べた記事は?おそらく存在しない。悲しきかな、昔から人は他人の不幸を喜ぶ性質がある。人々が喜び、注目を集めることを知っているが子そ、メディアも不幸を煽るようなことを述べ続ける。どこか「これ以上追い込んではいくらなんでも可哀想だからやめよう」などと書いたメディアは存在したのだろうか。もしも存在しているならば、私はそこのメディアを信頼してたい。

 聖人君子でない限り、人は多少なりともゴシップや噂話を好む。週刊誌やワイドショーが蔓延るというのも平和の象徴なのかもしれない。そしてそういったものを一切なくせ、触れるな、とまでは言わない。(たまに思う事はあることはあるのだが。もちろん自分も含めて)ただしメディアには文脈を変えてほしい。しっかりと自己批判も行ってほしいし、間違っても「未来ある優秀な」とか「謎の自殺」とかつまらぬ表現で語って欲しくはない。

 話は変わるが、どこかの首相は広島原爆の日のスピーチで、一年前とほぼ同じ文章を読み上げていたらしい。自分で書いていたとしても、人に書かせていたとしても、国民を軽んじている証拠である。しかし(この首相を弁護する気は毛頭ないが)自らの言葉ではなく、当たり障りのない表現で記事を書いているメディアが、この首相をどう批判できるというのだろう。

 約二カ月あいたのに、結構重い話題になった。次回はもうちょっと面白いことを書きたいものだ。

# by yokohama0616 | 2014-08-07 23:14 | 時事

おもちゃ屋のある風景

 先日、2,3つ隣駅の本屋に立ち寄ることがあった。なんとなく大きい本屋とは思っていたが、じっくりと中を歩いたのは初めてで、品ぞろえなども細かに見ることができた。

 数多くジャンルのある本の中で、私がそれなりに棚を見て本屋の趣向や方針などを判断できるのは文学とか小説とか言われる類のものである。かなり大げさに言ってしまえば文庫や単行本を眺めているだけでも店の姿勢がうっすらとわかるもので。話題の作品を大きく売り出そうとしている店は流行に従う店、全集ばかりを目立つところにそろえているお店はやや権威主義的などなど。

 しかし、である。実はこのように文句を言っているようではあるが、そもそも本屋自体の数が減ってしまっていることに気がつく。インターネット上の買い物でほとんどが成り立つからである。かつて大きかった本屋もつぶれたり、老舗の本屋もかなり縮小していたり、そうでなくても品揃えが明らかに悪くなったりしている。

 これは本屋だけの問題ではない。CDもだ。かつて最寄駅の前にすごく小さなCD屋があった。品ぞろえがとても良い、とは言い難かったが、独特のCD(70年代ロック、ブルースなど)を揃えていて、個人的には結構好きだった。ちょっと寄り道、なんてことを何度したことか。たとえそこで購入はしなくても、発売したばかりのCDなどをチェックしたり、と優雅な道草ができたものだった。しかしその店もつぶれて10年ほど経つ。

 現在、本屋は駅につき1つくらいはある。CD屋は駅につき1つもないかもしれない。そしておもちゃ屋というものは、チェーン店をのぞくと、もはやほとんど存在していない。子供の数も関係あるのだろうが、かつては一つの駅につき3つはあったんじゃないだろうか。子供が欲しがる稀少なおもちゃのために帰り道に2つも3つも店に寄らされた親もいることだろう。店の主人と「あー、この間まではあったんだけどねえ」とか「あれは売れるの早くてねえ。予約しますか?」とかそんなやり取りをする必要があった。今ではネットで探して1クリックで買い物は終わる。便利な時代になったものだ。

 便利な時代。それは間違いはないし、自分も充分に恩恵を受けている。しかし震災の頃、人々がスーパーに食べ物がない、ガソリンが無いと騒いでいた時に私が個人的に一番感じたのは物質的問題よりも精神的な問題であった。やれ何が危ない、何が必要だ、と言った錯綜する情報に、企業が悪い、国が悪い、被災も自己責任といった独善的な批判。あげていけばキリがないが、倫理観の欠如とコミュニケーションになりえない陰口めいた文句ばかりが顕れていた。たまにこうやって書いておかないと忘れがちになるから書いておく。未だこの国は被災中である。

 かつて子供も街中をめぐっておもちゃを探しただろうし、親も知りもしないおもちゃのために街中を歩いただろう。しかし今は1クリックして、届くのが遅い時には文句のメールを送ればいい。電器の調子が悪ければまずは修理できるかどうか電器屋までそれを運ぶ。今はカスタマーサービスにメールを送れば着払いで送ることができる。そしてあのCD屋、いい趣味しているんだよな、近く通る時には寄りたくなるんだよな、という店はほとんど存在しておらず、残っていても規模は縮小している。CDや本は服などと違いじかに手にとって買う価値は特にないからだ。探し歩く時間、電器屋に運び見積もりを待つ時間、寄り道する時間を、我々は無駄にしなくてすむようになった。店員や空間を含めて店と付き合うという関係性を失い、PCの画面と向き合うだけになった。不在というのはこういうものである。

 さて冒頭に戻るが近所の大きい本屋、日本、海外問わず私好みの作品をたくさん揃えていた。岩波文庫やちくま文庫なども含めて「おいおい、よくこんな本売るな。たぶん今年中でも売れないぞ」なんて思いながらも、うっすらと笑ってしまう。何か新刊本を買う時にはこの店で買おう、と久々に思った。

# by yokohama0616 | 2014-06-07 23:23 | ひとりごと

STAP細胞よりも大切なこと

 つい先日、友人と話していてこのようなことを聞いた。「うちの大学、博士課程の論文を見直すんだって」と。彼はSTAP細胞の論文を書いた、渦中の小保方晴子氏と同じ学部の修士を卒業している。今まで提出された論文も誰かが書いた文を無断で引用したり、いかにも自分が書いたように装ってはいないか、を見直すと言う。

 私が学生の頃、すでにこのような話はあった。4月の講義で教授が「私はネットに関してプロフェッショナルだから。少しでも怪しいと思った箇所はあらゆる手段でネット検索にかけまくってコピーしていないか探す。もしも見つけたら確実に単位はやらないから、そのつもりで」と嬉しそうに喋っていた。ただしこれは10年程前の話。今ほどインターネットも発達していないし、使われてもいない。少なくとも電車の中であらゆる世代が携帯電話をさわっているようなことはなかった時代だ。

 その教授が本当に無断引用にすぐに気づいたり、そうしている学生を無条件で落としていたかどうかは知らない。なるようになれ、と目を盗んで無断引用する者、本当は面倒くさかったけれど渋々自分で論文を書いた者もいただろう。私は残念なことに(?)この教授の講義をちっともおもしろいとは思わなかったし、決して好きな教授ではなかった。単純に文学の趣味があわなかったし、何でも決めつけて語る口調もゲンナリさせられた。ただしこのような脅しはなんらかの効果はあったかもしれない。

 私個人的には学生だった当時も、今も結構本気で「勉強する気ないやつは大学に行く意味がない。さっさと辞めてしまえ」などと思っていたクチなのだが、きっとそれを真に受けると、日本中の大学がつぶれることになる。だからどの大学も学業の実績やら有名な人間を教授として雇ったりしながら、いかにも学生に勉強させているフリをしている。そして勉強をしたフリをした学生達は社会人になっていき、やがてまた学生を選ぶ立場になる。きっと勉強をしたフリをした学生達はやがて子供を持ち、彼らに勉強するよう説くのだろう。自分は勉強するフリしかしてないのに。下手したら何かしらのズルをして卒業した人間が教師になるかもしれない。自分の生徒がズルをしていたら、そのような教師は何を語れるのだろうか。

 そもそも私が学生だった頃、学生達は好きなこと、興味のあることで科目を選ぶこと自体少なかったかもしれない。楽に単位を取れる講義ばかりが先に埋まっていき、苦労する講義(ハマリ講義、と呼ばれていた)は残る。仮に苦労するルートをとってしまっても先輩や友人に頼れたらラッキー。学生達は既に何を学ぶかには興味無く、いかに楽に卒業するかしか考えていなかった。ひどいのでは講義に出なくて学期の終わりのテストで4年生が「就職決まったんです。どうか卒業させて下さい」とだけ書いたという話も聞いたことがある。これは「私の人生を狂わさないでください」という強要なのだろうか。みんなやっていることだから、みたいな意見もあるが、私はそうは思わない。ただしいつか彼らの子供が大学で懸命に勉強している姿を見て「何してるんだよ!楽してズルしなきゃだめじゃないか!苦労して卒業するくらいだったら大学やめちまえ!」ぐらい本気で叱るような保護者に徹するならば、私から特に言う事はない。

 最後に小保方氏について。多くの人がそうであろうが、科学の論文というものを書いたことも読んだこともない。写真の切り貼り等がどれほどの罪なのか、想像できない。もしも無断引用をしたと言うならば「自分の仕事に誇りがないのかな」くらいに思っていた。ただ今でもそうだが、理研の胡散臭さはどうしても気味が悪く、彼女の会見までは「理研の悪いところを全部ぶちまけてやれ」などと思っていた。一応質問には答えていたし、どちらかと言えば彼女を応援していたのだが、マスコミによる彼女と理研を対立させるかのような質問に対して「私も理研の人間なので…」と答えを濁した時にはガッカリした。彼女は自分のやってきたことの正当性よりも理研を守ることを選んでいる。自分の研究を取り消そうとしている理研に対して異議申し立てをしながら、理研に籍を置いて、今後も置き続けたい意思を示している。研究していきたい、と言う彼女が本当にしたいことは何なのだろうか。私はなぜか「就職決まったから卒業させてくれ」という学生の話を思い出した。

# by yokohama0616 | 2014-04-28 23:54 | 時事

ハンナ・アーレントの問い

また今度じっくり、と書いておきながらだいぶ時間が過ぎてしまった。年始にハンナ・アーレントの映画を見た。映画の内容は「イェルサレムのアイヒマン」に関係するものであったが、ちょうど一昨年にその本の感想を書いた。(→ここ)本に関する感想は現在でもそれほど変わっていない。映画をみて、考えさせられたのは<被害者であるユダヤ人>という構図である。大きくとらえればユダヤ人問題になるのかもしれない。

 アイヒマンを「凡庸な人物、そこらにいる小役人」と言っただけで、アーレントは批判されたわけではない。「ユダヤ人の指導者がナチとなんらかの取引をおこなっていた」という記述も取りざたにされた。これが1960年代。それから30,40年経ったあとであろうか、エドワード・W・サイードは何かの本でたしか当時のイスラエルの首相がナチスと親密であった、とはっきりと記述している。サイードは様々な方面から批判はされていただろうが、当時のアーレントがされた批判とは違った形だろう。

 私が小学生か中学生の頃、マルコポーロ事件というものがあった。マルコポーロという雑誌において、「ユダヤ人虐殺のガス室なんてものはなかった。ソ連軍のねつ造であった」というような記事が書かれた。その直後に廃刊が決まる。回収、自粛、休刊などではなく、廃刊である。当時、家族からなんとなく背景を聞いた私は「ユダヤ人の力ってすげーな」くらいなことを思ったことを覚えている。日本みたいな小さな国の、それほど有名でもない雑誌がちょっと書いただけでつぶすとは。

 ユダヤ人という存在は何なのか。もちろんこのように特別視してしまうこと自体に問題があるのかもしれないが、どうしても中東を含め、世界の問題においてユダヤ人という存在が浮き彫りになるものが多い。かつてフランスで知り合った人に「君のお母さん、ユダヤ人なんだって?」と聞くと「血筋だけね」という答えを聞くことあった。向こうではハーフやクォーターは当たり前であり、このような会話もよくあることなのだが'Son origin, seulement'という答えはとても新鮮であった。たいていの人間はこのような質問にはOui/Nonでしか答えない。そしてまた別の人と話している時、昔の知り合いについて「ヨアキム(仮名)は元気にしている?」などと話かけると相手は興味無さそうに「知らない」と返し、そのまま憮然とした様子で「あいつ、ユダヤ人なんだよな」と加えた。私が深く考えすぎなのかもしれないが、彼らの「ユダヤ」という概念に対する反応には共通する何かを感じた。

 ともあれ今もユダヤ人は世界中に存在している。彼らの中にはそれほど歴史に関心のない人間達もいるかもしれない。しかしユダヤ人=被害者という構図は今も存在いているし、はっきりとは言わないけれどユダヤ人に対するうっすらとした忌々しさみたいなものもあるように感じる。ハンナ・アーレントが行った考察は、アイヒマンを始めとするナチに対してのみ向けられたものではない。アイヒマンを批判するユダヤ人に対しても、ユダヤ人に対して特別な感情を抱く人々に対しても発せられている。アイヒマンに対して「命令に従ったのみ、と言うが、お前は良心の呵責はなかったのか?」と言う人々は、同じ問いを自分にも向けなくてはならない。この問いはこう言いかえられる。「社会的立場よりも個人の倫理を優先するべきではないのか」と。つまりアイヒマンを糾弾する人々が考えなくてはならないのは「自分がユダヤ人であること、自分の同胞が殺されたことを抜きにして、第三者の一個人として、アイヒマンのような人間をどう思うか?」ということである。この問いに答えられない人間が、どのようにしてアイヒマンを批判できるというのか。

 ハンナ・アーレントはユダヤ人でありながらも、できるだけこの問いに真摯に答えようと試みた。「イェルサレムのアイヒマン」はハンナ・アーレントが自らの答えを出すための思考の記録なのである。

# by yokohama0616 | 2014-03-31 23:09 | ひとりごと