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清原が失ったものと失えなかったもの

 清原和博が覚せい剤所持で逮捕された。当然使用もしている。かつての大阪の野球少年はスーパースターになり、やがて犯罪者となった。と、こんなニュースに振り回されているのは俗物なのかもしれない。そんなことよりも日本の政治や経済で語るべきことがあるだろう、と私も思う。しかしまあ続ける。

 私にとって清原はスーパースターでも、怖いバッターであったこともない。私が野球を見るようになってからの彼は麻雀でいうところの「安牌」であった。横浜がピンチの時に彼がバッターボックスに入ると「あーよかった、よかった。清原だ」と思うことの方が多かった。三振かゴロか、いずれにせよ結果を出すことは少なく、重そうな体をブンブン振り回すが結果も出せず、足も遅く、しょっちゅう死球をくらって、とりあえず怖そうな顔をしてピッチャーをにらみつけているだけの人だった。しかし私よりも上の世代の人にとってはこんなものでは済まない、まぎれもないスターだっただろう。甲子園での活躍、悲劇のドラフト、その後巨人相手に涙の勝利、夢の巨人入団、などなどストーリーは尽きない。野茂よりもイチローよりも松坂よりも清原が好き、という人はたくさんいたはずだ。

 あの稼いだはずの50億はどこにいったのか、と人々は話題にする。50億という数字にはさすがに驚いた。野球以外のスポーツで(というか野球に限らず)どれだけ活躍すれば得られる数字だろう。逆に一つもタイトルを取ったこともなく、3割もほとんど達成していないような選手がなぜこれほど稼ぐようになったのか。年棒は彼の数字に与えられたのではなく、「清原」という名前に与えられたのであった。

 ルサンチマンを抱えた10代の若者にとってスターになるということがどれほど魅力的だろう。彼は自らしてスターの道を歩み、気持ちも大きくなり、多くのものを手にした。結局、彼は多くのものを失ったが、気持ちは大きいままだった。それはある種の精神的不自由さだ。野球選手として能力が落ちてきたのにもかかわらず、それなりに高い年棒を受ける。今までと同じように使う。それが今までの自分のやり方だから、という理由で。やがて年棒自体もなくなる。でも気持ちだけはなくすことはできない。具体的に言えば年棒にあわせて生活を落とすということをできなかった。年棒によって精神的状態も振り回され、修正することはできなかったということになる。
 
 しかしそれは清原だけの問題ではなく、人間の性なのかもしれない。日本の将来が案じられる中で「我々の資産を削ろう、税金を多く払おう。そのぶん貧しい人達には少しでも楽な生活を送ってほしい」という資産家はいない。「地方の活性化が大事というからには、我々政治家こそ地方に住もうじゃないか。時に移動が必要だとしても、我々は交通費はすべて無料なのだから。政党給付金や寄付金もすべて禁止にする法律も作ろう」などと提案する政治家もいない。皆生活を変えたくないからだ。地方がさびれていっても、貧困による事件が起きても「遺憾に思う」と言えば彼らの仕事は終わりだ。なぜなら自分の生活に関係ないから。

 清原を愚かだと嘆くも嘲笑するも人の自由である。彼を擁護することはできないだろうし、彼が愚かであったことを否定する人間はいないだろう。ただ私はこの事件をいつか思い浮かべたきには、諸行無常より、覚せい剤の怖さよりも、人の精神的不自由さを頭の中によぎらすであろう。

# by yokohama0616 | 2016-02-24 23:55 | 時事

アムステルダム雑感

 なんと一年ぶりくらい。久々に書く。先日オランダのアムステルダムに1週間弱滞在する機会があった。街中を歩くことを除けば、観光らしい場所にはそれほど行っていないのだが、その中でも一番観光らしい場所といえばゴッホ美術館ということになる。
 
 私は元来それほどゴッホに興味あるわけではない。オランダの画家ではフェルメールに一番関心があり(というかあらゆる西洋画家の中で一番興味があるかもしれない)、次いではレンブラントということになるか。とにかくゴッホはレンブラント以上に興味のない存在であった。ただ知人から無料で入館できるチケットをいただき、これはまあ何かの縁かな、などと思って行ってみた。

 最初に驚いたのはゴッホの自画像の多さだ。そこで思ったが、ゴッホほど画家の顔を思い浮かべるのが容易な画家はそれほどいないのではないだろうか。ダヴィンチもピカソもダリも有名であるが、自画像の数はゴッホほど多くはないはずだ。先ほど私はフェルメールに関心があるといったが、フェルメールの顔を思い浮かべることはできない。後に精神病で苦しめられたというのは自画像を20枚ほども描く自意識によるものであろうか。そういったことを考えながらゴッホの作品を眺めていたら他の事にも思いは及んだ。私は絵画に関してまったくの素人であるが故、彼の作品の革新的なところや細かな技術の特異性などはわからない。しかし私はこう思った。ゴッホの最高傑作とはゴッホの存在そのものなのではないだろうか。生きている間は認められず、苦しみ続けて自殺をした悲劇の画家。その人生を知ってこそ人々は彼の絵を見つめる。人はよく「ゴッホだって生きている間は認められなかったのだから」などという。ゴッホだけではなく、カフカだってそうだし、バッハも死後メンデルスゾーンが現れていなかったらこれほどまでには認められていなかったかもしれない。しかし不遇の芸術家という記号はいつでもゴッホになっているように思える。

 とはいえ、よく言われるゴッホの青色というものは目を惹いた。様々なものに青色を用いる。様々な絵があるが、私が個人的に興味を持ったのは海岸のようなところで水の入ったコップが写っている絵だ。細かに淡い青色を点々と使っている。そして思った。デルフト陶器にせよ、オランダという国の色は青なのではないか、と。これは些細なことだろうが、オランダの航空会社KLMの色も鮮やかな水色である。しかしなぜだろう、オランダといえば私は子供のころからオレンジ色をイメージしていた。もちろんその理由は明白なのだが。

 ある日にオランダ人のホームパーティーに呼んでもらい、そこで話して知ったことだが、オランダを建国した大公の名前がOranjeという名前だったからとのこと。そこから英語読みでオレンジが国の色として使われることになったようだ。意外と単純な理由である。

 とにかくどこを歩いても運河だらけで、自転車が横行している街であった。坂がほとんどと言っていいほどないので、自転車こそ便利なのだろう。あの街を車で運転できる気がしない。自転車が一番の権力を握っている。自転車用の信号もたくさんあるが、どれが信号であって歩行者は歩いていいのか、いけないのか、判別できない。自転車は歩行者がいても決してスピードを落とさずベルを鳴らすだけだから、老人や歩くのが困難な人にとってはすごく危険な街だと思う。そういえばオランダ人に教えてもらった冗談がある。

オランダ人「日本からきたのか、どうやってきたんだ?」
私「飛行機だ」
オランダ人「飛行機?なんだその乗り物?それって自転車より早いのか?」

# by yokohama0616 | 2016-02-05 22:49 | 芸事

厭世感と個人への憎しみ

 先日、久々に永井荷風と谷崎潤一郎についての講演らしきものを聞き、色々と考えさせられた。東京出身の明治から昭和まで、等しく80歳ほどまで生きた作家二人はどういうところが通じていて、どういうところが違ったのか。

 まず私が感じるのは永井荷風の厭世感らしきものである。「らしきもの」とわざわざ断るのは、なんというか厭世感という言葉だけでは語れないからだ。例えば『曇天』という作品では、自分が海外で過ごしている間に結婚した友人夫妻を祝いがてら会いに行く話だ。夫婦は「給料がもっと増えると良い、女中が欲しい、男の子を産みたい」と言った彼らなりの悩みを持っている。しかし荷風はそれに耐えられない。かつては駆落ち同然、勘当されたようなカップルをかつて荷風は応援しており、彼ら二人が過ごす場所を提供し、きっとお互いに夢は将来にやりたいことを語り合ったものであった。しかし今は彼らは荷風から見れば「つまらない、愚鈍な、低俗的な」話しかしていないように感じられてしまう。

 あるタイプの人間からすれば「あいつらもつまらない人間になったもんだ」という言葉で締めくくる。しかし荷風は彼らを憎んだりさげすんだりはしない。ただ社会や時間の流れに対する寂しさだけをあらわにする。『ふらんす物語』でもそうだ。人々がかつては絶望するまでに悲しいことがあっても、やがては「そんなこともあったね」と思い返したりする。そのような記憶の風化ですら(そしてこの場合は悲しい記憶が薄れているのだから肯定的にとらえる人も多いのにも関わらず)、荷風は寂しさを感じる。人や物に対してではなく、社会や時間の流れに対して反応している。

 『花火』の中であれほど明確に政治や社会の動きと決別の意を表した荷風であるが、そういった意味ではいつまでたっても社会的な作家である。俗物を生む社会、文化や歴史を重んじない無粋さ、映画を含めた流行にすらチクチクと頻繁に嫌悪感を示す。

 それに対して谷崎はどうだろうか。こちらは人とのケンカ話が絶えない。英文学者である弟にも「才能が無い」と一括、芥川龍之介とも口論、随筆の中でも人と言い合ったり、特定の人間に対して嫌悪感を覚える描写も何一つ恐れることなく記す(小説・随筆がすべて真実であるかどうかは別として)。例えば『異端者の悲しみ』。これは小説であるが、本人が言うとおりほぼ自伝である。そして世界のみならず、日本だけでも悩める文学青年の小説なんて山ほどある。ただこの作品のすごいところは、妹に対する執拗にまで見せる嫌悪感である。その妹とは、いまわの際が近づいており、そして実際に死んでしまう。死んでしまった人間に対して悪口を言うのは非情に思えるし、普通生きている間に冷たくしてしまったも亡くなってからは温かい目でみるはずである。しかし谷崎は違う。自らの情けなさとふがいなさから八つ当たりのように妹を攻撃する。そして亡くなってしまった妹を聖なる存在とすることもなく、自分(谷崎)を冷ややかに見ている点、そして「病気で可哀想な自分」に陶酔している点も細かく描写する。

 個人を強烈に攻撃することのある谷崎であるが、荷風ほどの社会や時勢に対する「厭世感らしきもの」は感じない。『源氏物語』や『細雪』を戦時中には思うように書けなかった、とサラリと述べているぐらいだ。関西に疎開した際にも時代や政治状況を批判するのではなく、引っ越した先の大阪人を批判する。谷崎は達観していたのか、それとも社会に対してはそのような感情を抱かなかったのだろうか。そして荷風はわけのわからないような生活や人づきあいをしているようで、小説内の人間にしても誰か特定の人間をこき下ろしたりすることなく、どこかあたたかな眼差しを感じるのである。

 長くなるのでしめくくる。かつて荷風や谷崎のように、生きるために書いたり、書くため生きたような人間がいた。作品にムラがあったり、ブレがあったり、評判になったり、不評を買ったり、寡作になったり、色々あったであろうが、少なくとも「引退」なんて考えたりもせず、誰か特定の人や特定の何かに対して遠慮することなく、あるいは媚びることもなく、独自の文学を追求し続けた。作品のみならず彼らの生き方やちょっとした言動でも、ゴシップめいた彼らの私生活の小話ですら、文学性を感じさせるものであった。そしてやがて、そのような人々はいなくなった。

# by yokohama0616 | 2015-03-14 23:34 | 芸事

Charlie hebdomadaire=週刊シャルリー ずいぶんベタな名前だな、おい。

年末の挨拶も年始の挨拶もすることなく、こんなに間が開いてしまった。

ちょっと時間があいたけれども、フランスでのテロ事件について。たかが一年ではあるが、一応パリにいたことのある人間として。
個人的印象として、フランス人は「自由」という言葉にとても敏感だと思う。平等だの博愛なんてのは知らないけれど「それは彼の自由だ」とか「お前の好きにすればいいさ」いうセリフを、一切の悪意や諦念を含まずに言う術を彼らは知っている。(もちろん悪意を示すこともあることはあるが)
堂々と政治の話をカフェでもレストランでもできるし、選挙が近い時にライブのMCで「皆さん、セゴレーヌに投票しましょう!」なんて堂々と言える。政治が好きっていうのも自由という概念があるが故だろう。客の中にどこかの党の関係者がいようと関係なく「おれはその党は嫌いだ」とか言える。日本の場合は無駄な戦いを避けたいからか、言うことにより誰かに非難されるのが怖いからか、まず言えないし、言わない。

 「表現の自由」という言葉はただでさえ、妙にカッコイイ、というか文句のつけようのないくらい正義に満ちた表現であるのだから、フランス人が好むことは当たり前だ。今回のテロに対しても'Je suis Charlie'の文句を持ちあげ、表現の自由を許そうとしないイスラム勢力、テロ組織と戦おうとしている。

しかしフランス人でもなく、被害者でもない私はどうも違和感を感じてしまう。もちろん私だってテロ組織なんてこの世からなくなればいいと思っている。今回の犯人が罰せられるべきなのはただ「表現の自由」をつぶそうとしたからではなく、一つの会社を襲って人を殺したからである。言い方を変えれば、「表現の自由」云々というのは一種の動機に過ぎない。どこかの企業がイスラム圏の人々を差別したとして、それに恨みを抱いた人々がその会社を襲った、と言えば罪は変わるか?変わらない。会社を襲って、人を殺めたということ自体が罪なのだから。人々はその会社の名前を「Je suis」などと名乗って街中を行進するか?おそらくしない。だってその会社にだって非があるんだろ?てなもんで。

Charlie hebdoに非があるかないか、社員達の表現も行き過ぎていたのではないか、とかどうでもいい。とにかく一つの会社を襲い人命を奪ったという事件こそが痛ましく、罰せられるべきなのだ。テロ集団や組織は断固として戦うべきだが、自由を守るためではない。人の命と生活を守るためだ。

あの事件の後、「日本でも、表現の自由を守るための意思を示すべきだ。どうして日本人の意識は低いんだ」とかいう意見があったが、なんか白けてしまった。欧米の運動にあっさり乗っかろうとするのが日本人の高い意識かい?そもそも日本の守るべき「表現の自由」って何?原発の状況を説明もせず、アイドルが隠れて不倫デートしてた写真を週刊誌に載せることかい?

ちょっと話がそれたが、表現の自由を守る、なんていう大義名分がついたぶん、この争いはまだまだ続きそうで…。争いに大義名分がつくとロクなことが無い。

そんな昨日、日本も大いにかかわるテロ組織とのニュースが。とにかく無事を祈る。そしてそれは国家の姿勢と尊厳が問われることになるだろう。選挙前になると「国民の皆様」と連呼し、「国民の皆さまのための」政治が、国民が危険な状況であるときにどう対応するか。どんな結末であろうと、国家としての矜持を持った対応を期待する。

# by yokohama0616 | 2015-01-21 21:38 | 芸事

責任という言葉の尊さと醜さ

 いつの間にやら霜月も暮れに。いよいよ年末というところで衆議院を解散する決定した。以前もこんなことあったな、年の瀬に選挙を行う。投票率が低いのは人々の意識の問題もあるのだろうが、選挙をやる側の問題でもある。なぜこの時期を選ぶのか。

 それにしても政治について話す人間で「私は政治に別に詳しいわけじゃないけど」とかいうExcuseを用意するのは何なのだろうか。じゃあ話さなければいい。執筆やらテレビ出演等の仕事だとすれば断ればいい。一家言があるならば話せばいいし、特に言う事が無ければ話さなければいい。要は「批判、責任追及されたくない」という意思表示なのだろう。

 責任追及されたくない、という感情はいつごろから顕著になってきたか。コンビニで、例えば酒を買うと店員はこちらに一瞥も送らずに、<20歳以上>の確認のボタンを押すよう頼んでくる。ボタンを押すことは10代にはできないのだろうか。少なくとも10代の人間が飲酒喫煙を行った際、「我々は20歳以上か確認しました」と言えることになる。振り込みなどでも「以上でよろしかったら確認のボタンをお願いします」と言う。もしも振り込み先、振り込み額などに問題があっても、仮に振り込み先が詐欺グループ、悪徳会社だったとしたってコンビニが責任追及されることはない。この便利なボタンのおかげで?違う。元々ないのである。

 ファミレスや居酒屋などでもある。「ご注文を繰り返させていただきます」というのもそうだろう。まあ大勢などになると、注文を繰り返す意味もわからないでもない。ただ一人でファミレスで注文しても「ハンバーグにガーリックソース、ライスセット、食後にコーヒーとケーキでよろしいでしょうか」なんて言ってきたりする。そんなの小学生でも覚えられるだろう。客を気遣っていると言うよりは「オーダーミスで怒られないように」やっているとしか思えない。

 そもそもファミレスで注文ミスがあったり、頼んでいたものがなかなか出てこなかったりして、そこで怒り狂うやつなんているのか?いるんだよね、これが。怒り狂う人間の正義は「こっちは客だぞ」、「金払ってるんだ」といったものだろう。では店が金を返したりすぐに料理を持ってきたらニッコリとご機嫌になるわけでもなく、プンスカ怒り続けていたりする。これがおかしい。「こっちは金払っているんだ!」と金銭について主張するならば、金銭が戻ってきた時点で怒りを解消すべきだ。彼らは何に怒っているのか。「自分が軽んじられた」というような妙な感覚である。別に店の人だってその人を馬鹿にして注文を間違えたり、忘れたりするわけはない。でも名誉を傷つけられた、とかいう感じで怒るんでしょうね。人前でギャーギャー怒ってる方がよほど名誉を失っていることに気づかないのだろうか。「責任追及されたくない」とか「意味がずれている」というのでは冒頭に挙げた政治の話と随分似てますね。世相が政治なのか、政治が世相なのか。

 そうそう、かくいう私も聖人君子ではなく店に対して恨みを持ったりもする。一月ほど前、友人と夜9時くらいに会おうかと話になり、近所のバーへ。8時50分くらいにバーに入るとすぐに注文を聞きに来る。ではビールを、と頼む。ビールの栓を開けて持ってくる。それと同時に「ラストオーダーとなりますが、他の注文はよろしいですか?」と。「何時閉店ですか?」と聞くと「本当は9時なんです。ちょっとなら延長しますけど」となぜか恩着せがましく。じゃあ「なぜ店に入った時点で言わない」と思い、そのまま5分くらいでビールを飲んで胸糞悪く店を出た。「二度と来るもんか、さっさとつぶれちまえ、こんな店」と思いながら。

# by yokohama0616 | 2014-11-25 21:11 | 時事