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野崎孝訳の口調で

 久々にサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』再読したよ。考えてみれば、10年ぶりくらいかもしれないな。『フラニーとゾーイ』は時々読み返したくなる本だけれど、でもそれ以外の作品はほとんど読んでいないんだ。そりゃ『ライ麦畑でつかまえて』は読んださ、例にも漏れず高校生ぐらいの頃にね。ただしとくに感銘は受けなかった。ただあの明らかに病的なホールデンって人間の考え方などが至極真っ当には思ったね。ありゃ当たるわけだよ、うん。でも決してそれほど熱心な読者にはならなかったせいか、その他には上記の二つくらいしか読んでいないな。『シーモア序章』に興味を持ってはいるけれど。

 おっと『ナイン・ストーリーズ』の話だったね。文字通り9つの短篇で成り立っているんだ。まー、最初の『バナナフィッシュにうってつけの日』にはビックリしたもんだよ。いきなりシーモアの自殺なんだから。それも理由は全く分からない。というか、サリンジャーの作品はそういうものが多い。自分で「若者を描く」と自覚していたみたいだけど、正確に言うと「(神経衰弱気味の)若者を描く」じゃないかな。この短編集のどの作品でも神経衰弱者が登場し、それに感化される人間も出てくる。そうそう『ライ麦畑』のホールデンも結局phony的なものを拒み続けた神経衰弱者にすぎないのかもしれないよね。(僕の口調が似ているって??まさか!僕をあんなひねくれた人間と一緒にしないでくれよ)

 そう考えると『フラニーとゾーイ』ってのはサリンジャーの作品の中では異色なのかもしれないな。平和的な結末というか、フラニーは最終的には神経衰弱にはならないからね。あの小説の完成度は実に高い。<チキンスープ>とか<太っちょのおばさん>とかいう言葉を耳にすると、ふと場面を思い出してしまうこともある。そういった細部の言葉の選び方もうまかったんだろうな、うん。

 で、たびたび話が戻るけど、『ナイン・ストーリーズ』の話。今回一番印象的だったのは最後の『テディ』だね。おそらくシーモアのモデル(というか本人かもしれないな)であるテディが大人であり医者であるニコルソンと言いあいをするんだ。テディは「死ぬのは怖くない」と言ってニコルソンはそれをまともに取り扱わない、そりゃまあそうだよね。テディはこんなことを言う。
 
 「人はみんな物には必ず何かにおしまいがあると思っているけれど、本当は違うんだ。おしまいになるように見えるのは、ほとんどの人がそういう見方しかしないから。でも本当におしまいになるわけではない」
 「スヴェン(テディの友人)が今夜飼い犬が死んだ夢を見るとする。スヴェンはろくに眠れないだろう。あれほど可愛がっているのだから。でも翌朝目が覚めた時には大丈夫。夢にすぎなかったことがわかるから」
 「僕が言いたいのは、彼の犬が実際に死んだ場合でも全く同じってことさ。ただスヴェンにはそれがわからないだろう。つまり、彼は自分自身が死ぬまで目が覚めないだろうから」
 
 全く舐めたガキだよね、でも天才少年という設定なのだから仕方ない。で、上の三つの言葉を読んで、荘子を知っている大抵の人が『胡蝶の夢』なんかを思い出すんじゃないかな。実際にサリンジャーは禅や老荘思想なんかにも興味はあったらしいし、意識していたのかもしれないね。

 最後に、これは今日知ったことなんだが、ビル・エヴァンスなんかがやって有名なジャズ・スタンダードのMy foolish heart。これは『ナイン・ストーリーズ』二つ目の『コネティカットのひょこひょこおじさん』が映画化された時のタイトルであり、その主題曲なんだってね。映画に不満だったサリンジャーは、ホールデンよりもフラニーよりもテディよりも、誰よりも気難しい神経症気味の人間であるせいか、映画界とあっさり手を切ったみたいだけどね。

by yokohama0616 | 2011-06-18 01:05 | 芸事